ココロの隅っこ吹き溜まり

自分の心の中身、色々ため込む前に吐きだす場所

聞く耳をもてば…

Twitterでつぶやいていたことのまとめ的なもの

どうしたのかな…気になることまた、一つ。あの時もちょうど今くらいだったような気がする。春になったらチューリップ見せたいって言ったけど、その前に消えちゃってそれからまた会えたのに、またチューリップ見せる前にいなくなっちゃった…「どうかしたの?」って聞けばよかったのかな?

好きになったらなんとなくでも、ずっと好きなんだよね…ずっと、気になるんだよ。

 好きな人がふといなくなってしまうと、ずっとずっとその人を想ってしまう。会ったことのない人でも…。

好きか嫌いかで言ったら好きじゃない。拒否った人をそう簡単に信じたりもしない。人ってそんなに単純じゃないし、寛容になんてなれないものだ。「どの面さげて…」って気持ちはぬぐえない。

私が否定したのではなくて、そちらが私を否定したのよ。何事もなかったかのようにそろりと近寄ってきても、私は忘れていない。

記憶ってふとしたときに“反芻”しちゃうよね。加齢とともに忘れっぽくはなってるけど、結構記憶力はあると思ってる私。思い出すのは辛かったこと悲しいことばかり、でも今その経験がどう転換したか?を整理すると起こるべくしてあった試練だったと思えて、少し救われる。

大人になってからその怒りや恨みを母親にぶつけたことがあった。大人の矛盾点をぶつけた。そのことで母親を傷つけたかもしれないけど、それを機にもやっとした親子関係が少し緩和されたと思う。遅咲きのアイデンティティが芽吹いた瞬間。

今の自分を形成してるのが今までの経験や思い出なのだと思う。良いことだけでも嫌な事ばかりでもいけない。宿命を乗り越えるだけの力を備える経験とかアドバイスをくれる人が必要で、私もそんな人にならなきゃ…って思う。

親のエゴ

親にとって子供が一番、可愛いに決まってるけどそれを実感として受け取っていないと、不満や不安につながることを私は身をもって知ってる。

子供って自分以外に気持ちがいってる親に、異常なまでに反応して変に良い子になったり、激しく反発したりして…注目してもおうとするんだよね。

子供って親からの愛情に満足していたら、どんな時でも親の味方になってくれる。と、今は実感としてある。母親は優しく厳しく強くないとやってらんない。

神様より…お母さん、ボクを見て…だよ。 母親なんて私の気持ちなんもわかってなかったもんな…。娘にこんな風に思われてて母も可愛そうだけど、私は母になって母の気持ちもわかるから、子供に同じような思いはさせたくない。私の子供たちは本当に可愛い!って思える。

私は母からは使えない娘みたいに言われて傷ついた。でも、世間様からは「しっかりしてて良い子ね」って言われてた。このギャップに随分苦しんだな。母から合格点はもらえなかったけど、世間様からみたら良い子なんだってわかって救われた。でも、私は母を恨んだりしていないよ。冷めてるだけで…

自分で産んだ子供の気持ちもわからないのに、辛い思いして産み落とした母の気持ちがなんでわからん?…って何?そんなもの自分が経験しないとわかんないじゃん?でも、娘の気持ちは自分にも娘時代があったんだからわかるはずでしょ?

「こんなにしてあげてるのに」「こんなに思っているのに…」の後に何故

“why?”

って、言うの?母親として当たり前に好きなようにしたことなのに。なんで、見返りを期待するその発言するの?そんなこと思うくらいなら、私はそこまで一生懸命やらない。やらなくたってご飯作るのも洗濯して干して畳むのも私だって、子供たちはわかっている。わかっているから私には優しい。それだけでいいのだ…。

最近の親の愚痴の意味がまったく理解できない。自分が青春時代の楽しさで置き忘れてきた記憶を思い出しなよ。子供のせいにしないで、もっと向き合って関わってあげればいいのに…時間が経ってからそうしようとしても手遅れなのよ。

 

最近のTwitter つぶやきまとめ備忘録

  • 母が亡くなって今年で4年。昨日、急に次男が「おばあちゃんに会いたいな。亡霊でもいいから出てきてくれないかな。僕の一番好きな人」ってつぶやいてた。亡くなった時はよく理解できなかった大切な人との別れ。本当に悲しい時に涙なんか出ない。彼… https://t.co/kYu7NDcN2S
  • 優先順位ってものがあるはず。後でもできるのに焦って後悔。今しかやれないことに躊躇して逃す後悔。繰り返さないようにこれからは生きる
  •  自分も時々、やっちまった…って思うことはあるけど、140文字に込める言葉…よく考えてしようと思う。ただの自己顕示欲にならないように…。大事な情報が埋もれてしまわぬように。

そこにあるのは壁、バカの壁

壁にぶつかった時、
なんとなくごまかしながらやり過ごすことと
嵐が去るまでジッとやり過ごすこと
どっちも同じでなんの解決にもなっていない

最初に壁にぶち当たった時に
それに立ち向かう勇気
それを乗り越える知恵
挑戦を避けていると「術」は身に付かない
だからいつまでたっても同じことで悩んで
同じことで落ち込んで凹み
また、ごまかしながらジッとやり過ごすだけ
人に問いかけてヒントから打開策をさがすこともしない


「どうせ…」という気持ち
「おせっかい」という気持ち
「そんなことわかってる」という気持ち
そんな邪魔になる感情をまずは捨てる勇気をもてばいいのに…
優しい言葉、意味のないバカ騒ぎで心は癒されない
癒され元気になった“つもり”


自分だけならそのままでいいけど、自分の子供にも同じ壁が訪れるかもしれない
自分だけの問題ではない
だから、子供に何か悩みが起きた時、適切な言葉がかけられるように
私は自問自答し、打開策を探し、人に教えを乞い
素直な心で向き合う
逃げてばかりの大人だらけで
つまらない大人が増えてしまった
大人の皮をかぶった幼稚な人間ばかり

養老孟司
ものを理解する時に、どこかで止まる。もうこれ以上、進めない、理解で
きないという絶対的壁を「バカの壁」という

 
つまりはバカの壁が増殖されるだけだ。

 

バカの壁 (新潮新書)

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ここだけの話し

時間通りに…

 

眠くなる、

寝れる、

腹が減る、

食う出す。

 

これらが難なくできるって幸せなことなんだって、改めて思った朝。

これらが順調だから笑って怒って泣いて…が普通にできるんだなって。

50歳になっても「怒り」があるって少々痛い中年ですが、それを言葉にして書くって書けるって「勇気」もいるし、「分析」するから頭も使うしボケないかも。ただ、怒ってるからってあからさまに表情にはださんよ。大人だもん(笑)

 

自分を押し殺して、不本意な事言って、スライド写真みたいにコロコロ表情変えるより、まだマシに思えてきた。

散々馬鹿にしてきた人達と今は仲良し?自分の持ちネタをひけらかして人気取り?自分が優位に立ちたい?まぁ、そう思われてもしょうがないよね。だって、その人たちの事馬鹿にしていたんだからさ。

あとから追いかけて好きな物かき集め、人に提供してるしてる人との違いが今一わかんない。三枚くらい舌が裂けてるんじゃないか?イイ人をアピしてもなんか違うのよ。私にはもう違って見える。

結局、スマホのモニターサイズの人なんだよね。その中でしか生きていけないようなさ…私はパソコンのディスプレーサイズ(17インチ)ww

 

こんなことあそこでは言えないさ。言えやしないさ…。

 

 

私も常に「機嫌の良い女」で、いたいのよ。

 

疑義

「疑う」ことはいけないことなのか?私は思う。「疑う」ことをしない人は裏切られても気がつかない鈍感か、知って深く傷つき自滅してしまうかの両極ではないかって…。何かしら疑って生きないと人はおかしくなるんじゃないかって思うよ。

でも、「疑う」と言ってもまずは自分を疑ってみること。人の事、疑う前に自分を翻ってみる。そうじゃないとなんの解決もしないからね。

私は疑ったら基本、確かめる派(笑)そうね、実際はわからないことがほとんどだけどね。でも、疑って憶測でそれが真実なんじゃ?っていう妄想で苦しみたくないしね、自分もそう思われたくないしね。ただ、不確かな空気だけで感じるクセは無くしたいw

信じたものが全て「正解」とは限らないけど、少しでもそれが正しかったという裏付けを人は求めるんだよね。ただ、間違っていた時の認める正直さも持っていたいです。

「間違い」に気づけない、認めないって言うのは、人から言ってもらわないとわからないこともあって、難しい事なんだけどいろんな人の話しや言葉に耳を傾けたいね。

 

Twitterかぁ、得るものは多いけど知らないでいた方が楽しくいられたなぁと、思うものもある…寂しい気分にさせることもある。

人のとってきた「行動パターン」「言動、話題」で、人の本質的なことはだいたいわかる。別にそれを否定したり怒ったりしてるわけではない。見え透いたそれがなんとも可哀そうに思えるだけ。

こういう時、あぁいうことをしているんだろうな…あんなことを話しているんだろうな…私ともしていたように…ってね。自分の知らないことを周りの人は色々知っている。だから、きっと関わりのない振りして皆やっているんだよ。自作自演なのかもしれないとすら思うこともある。

私は「嘘」はつくけど、「嘘」は言わない。人から教えてもらって知ることが多いから、やっていないことはやっていなし、約束したことは破らない、言わないでって言われたことも絶対に言わない。

そう、それでもきっと私も「疑われている」のだと思うよ。

 

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headlines.yahoo.co.jp

なんでも「鵜呑み」にするのもどうなのかなって、元女優の逮捕事件を見て思った。あの逮捕ももしかしたら証拠不十分で不起訴になるかもしれない。逮捕前にあの元女優が何言ってたかはわかんないけど、超自然生活もなんか異様に見えていた私には、あれも“有”なんだろうとあまり驚かなかった。

私も人の事言えるほど賢くはないけど、時々「アンタ馬鹿なの?」と思うことがある。物事を一点でしか見てない人が多すぎて…だから、週刊誌とかゴシップネタが売れるんだね。

 

ネット情報過多、ほとんどゴミ。裏ネットでうごめくのは、ほとんどがクズ。

SNSでよく情報を得るためにやってるという人が多いのだけど、本当に情報を得たいと思うならSNSから得るなんてほんと無意味だと思う。ゴミの山から資源を探すようなものですね。

嘘つきが多いし、口コミからの受け売りで自分が体験したわけでもない…。それを真正面から信じてしまうっていうのは、見ていて痛々しさすら覚える。

なんで、見ず知らずの人の言うことを信じられるのだろう?
どうしてオフィシャルとかから、自分で調べようとしないんだろう?

冗談で聞いてるのか?知ったかなのか?わかんないけど。

最初は何もわからなくて当然、知ってる人に聞くのもいい…でも、最初から何も失敗なくやれることなんてないし、結局誰かに聞いてやったことが失敗だったら、教えてくれた人のせいにするだけ…。

私は最近、5年使っていたtwitterのアカウントを削除することを決めた。ゴミみたいな情報を垂れ流しにして、さも『発言の自由』を正当化するような輩がいる。楽しく語らうのは簡単だし、自由にやっていただいていいけど、全員がそれを歓迎しているとは思わないし、不特定多数のいろんな人がいるのに「ドヤ顔」で、盛り上がってしまうその無知さに嫌気がさした。

長年慣れ親しんだアカウントを削除し、新しいアカウントを作成した。その長年慣れ親しんだアカウントを、自分の快適さを求める理由だけで削除するわけがない!そうじゃない?どれだけの思いで決断したか、そんなこともわからないのは、逆に言えば自分の快適さしか求めていない人しか発想できない事だと思う。そういう人は快適さの邪魔になるものを安易に排除する。見ての通りだ。

自分の価値観、物差しで人を見てしまうクセがついてしまうのもSNSの怖さだと思う。全てデータ化され流されるネットの世界。

私は人とのコミュニケーションを重視したいのです。情報発信なんて二の次。聞かれれば知ってる範囲で教えてあげたい。でも、それだってコミュニケーションがしっかりとれた中で、自分で体験して知りえた情報のみだ。出所のわからない憶測、情報など無責任に教えられるわけない。だから、コミュニケーションがきちんととれるように、新たにアカウントを作成した。一から出直せばいいと。

絵画も本物を観に行かなければ、大きさや色合いはわからない。パソコンのディスプレーで見て、実際に本物を見た時の圧倒されるほどの感動とは、見に行かないと感じられないことだ。

LIVEも同じこと。DVD化を安易に求める人もいるが、実際に行けたり行けなかったりすることも全部ひっくるめても、行った人にしかわからない感動がある。その感動はDVDで観た感動とは月と鼈ほどに違う。

いろいろな事情のある人がいる。経済的、健康面、家庭の事情…それで、せめてDVDでせめて行ったの人の話しで…と、言うのもわかる。だけど、それは結局は自分の感じたものでもないし、リアルで感じた感動でもない。

私が言いたいのは「情報化」された人の話しや、デジタル化された映像で満足しないで是非、自分もその場に行く!と、いう“糧”にしてほしいという事だけです。人の話しに流されず、心乱されず…自分の目で耳で五感で感じてほしいということ。それが結果的に人の感じた事と違っていても、それは間違いではないし自分で感じた事!という事実で正解なのだから落胆する必要はないでしょう。

これは私も経済的、家庭の事情で体験できなかった時期を乗り越えてきたから言えること。順風満帆に色々やってこれたわけではないから言えるの。

人との繋がりもネット上から対面で話す。このことで人となりがわかるというものだ。会って話してみないと、事実なんてわからない。まぁ、一度や二度じゃ人の事もわからないわけだから、ネットの中だけならなおさらだよね。

 

また、SNS、ネットには闇もある。表向きには仲良しこよしを装っても心の中までそうとは限らない。妬み・恨み・嫉みに溢れている。知られていないという過信というか、知られていたって別にかまわないという開き直りか?

悪の限りが闇の中には存在している。おぞましい…
「人として」という概念はまず皆無。

自分が清廉潔白の人間とは間違っても言わないないし、思ってもいない。悪知恵も働くし腹黒い。でも、人間なんて多かれ少なかれ皆そんなものだ。そこを隠して生きて生きたいと考える人ほど、信用ならない。疑いの目で見ながら付き合ってしまう。寂しい事ですがそれが人間関係。

但し、生きている以上、人間関係がリアルであったりバーチャルであっても、自分は血の通う人間なんだ。と、いう意識は持ってSNSも利用したい。その解釈を解きたくて私は語るのだと思う。