ココロの「闇」
心の闇は生まれた時から大きいわけじゃないし、誰でも小さな状態で持って生まれていると思う。
母親のお腹にいる時からへその緒を通じて作られ持って生まれる。私はそんなものだと思ってる。
けれどもその闇の大きさがどこまで大きくなっていくのか?は、その人がこの世に生まれ出て育ち過ごした環境、時間、出会った人なんかによって変わってくるのではないかな?
私の場合、とにかく親によく叱られよくこき使われた(笑)
怒られたくないからよく「嘘」もついた。「嘘」を隠すための「嘘」もついた。逃げ場のない親からの仕打ち。でも、ご飯を食べさせてくれてたまには優しいこの親。子供なんて小さな抵抗を繰り返しながら、飼いならされてしまうものだ。
お金がなくて常に我慢も強いられた…早く大人になりたかった。
父親は酒を飲むと暴れ警察ざたになったこともある…早く家を出たかった。
でも、そんな私がそれでも人間らしくまともな暮らしがしたい。と、常に思えたのは「人」のおかげだった。善い人たちに巡り逢えたおかげで今の自分がある。
嘘も方便」…嘘をつくことは悪いことではあるが、時と場合によっては嘘が必要なときもあるということ。
個人を貶めるだけではなく、その人に関わる人たちを巻き込みまどわす「嘘」をつく人がいる。いい大人がそれをしてしまうのだ。もはや、病気としかいいようがない。
某SNSでそんな事件が勃発した。
とはいえ、手が込んでいるようでザルのような「嘘」小中学生の頃が懐かしいくらいのレベル。いい大人がそんな「嘘」を裏で仕込み植え付けどうなっていくかを見て楽しむてきな…至極幼稚だ。
人を貶める悪質な「嘘」は断じて許せない。しかし、その「嘘」は一人の勇気ある当事者のおかげで明るみに出て、その人を大切に思う人たちの怒りによってそれ以上の“誤解”や“憶測”は広がらずに済んだ。
やり方について少し後悔をしていた彼女に…
事の重大さを伝えるにはまず、OPENにする必要はあったと思いますよ?わからない人はわからないまま過ぎればいいけど、なんとも言えない居心地の悪さ、空気、文字上の空間とはいえ感じるものだし、更に憶測を生むよりはよかったのではないでしょうか?私はそう思います。
こういうことって単純じゃないと思うの。悪いことは悪いと、してしまった人に強く抗議した方が良いとは思うものの、よく考えたら普通の思考で常識のある人ならしないような事をした人の心の闇にどこまで届くのかな?って…これでもう、追撃はしなければそれで良いと思うんです。
普通の大人ならやって良い事悪い事、言って良い事悪い事の分別はつく。つく人が昨夜は怒たわけ(私も含め)。傍観してわかった風な人もいる。他人事のように思う人もいる。でも、嘘ついて人を惑わすとこうなるという、戒めになったと思うのよ。
と、返信をした。
「嘘」で人の輪を乱そうとした首謀者の意図はまったく理解できない。非難されるべき行為です。私がこの騒動の後に考えた事は、この人の心の闇はどのようにして大きくなってしまったのだろう?という事。
「嘘」と「現実」の境がわからなくなるほど病んでるのかもしれない。どんな人生を歩んできたんだ?それはそれで悲しいことだしもし、素で愉しんでいるのであれば愚かな人だと軽蔑する。
どれだけの報いがあるのか?覚悟があったとも思えない…。きっと、バレないで皆崩壊すると思ったんだろうな…バカバカしいけど…。
ノンポリ
知識や知能が高いからといって、心まで高尚とは限らない。
そこにユーモアが加わることで、本当に優れたヒューマニストが現れるのだと思うし、人間味溢れる行動と対話が生まれると思う。
知識や知能が邪魔して真実が見つけられず、差別的・否定的・固執した思考になってしまうのかもしれないな。
知識人ぶってる人ほど残酷なことを言って発信しているし。
さて、
『ノンポリ』という言葉を最近、眼にしてどんな意味なの?と調べたら
ノンポリとはノンポリティカル(non‐political)の略で、政治に関心がないこと、またはそういった人を意味する。全共闘など学生運動が盛んに行われた頃の言葉で、政治に関心があってもこうした過激化する学生運動に関与せず、どの党派にも属さないような学生も指し、ノンポリ学生という言い回しも使われた。
しかし、当事のような政治に深く関心を持つ若者が少なくなった現在、無党派という意味で使われる程度で、あまり使われない死語となっている。
この解釈だと学生や若い世代の人の事を中心に指しているけど、いい大人にもこんな人はいる。一見、関心があるようでも人の言葉を引用するばかりで、自分の考えを語っている人が少ない。人の言葉に煽られて瞬間的に盛り上がって、波が過ぎると忘れてる…そんな人も多い。
こうした駄文であってもその時の自分の思いや考えを記し残すことは、意識の向上につながると思うのですが…。
「自分はそれでも変わらない」
と、言葉に出していう人もいる。私は「本当にそれでいいのか?かなりみっともないよ?」って言ってあげたくなる。「変わること」を恐れているだけでちっともかっこよくない発想だからだ。
自分が何も残せない責任を子供に託し「あの子なら大丈夫」っていうのも嫌い。子は親の鑑。大丈夫だとは思えない。その大丈夫じゃない子を真面目に考え活動し社会を動かしている他人様に押し付けているのと一緒だから。こういう無責任な発想の親が嫌い。
そう、だいたい無責任な人が「ノンポリ」なんだよね。
参院選挙後
有権者も1票を投じるなら政治についてきちんと考え勉強しなきゃと思ったし、もし1票を投じた議員、政党が当選したなら働きをきちんと見て行かなきゃという責任もあるって思う。勝っても負けても思想が違う人をバッシングする人がいる。平和がどうのと言っておきながら…本当の平和活動を知ってるの?
それを見て傷つく人がいるのをしっているのか?しってて言うのか…子供を持つ母だから、平和を願わないわけがない。だから、偏見でバッシングする人をみると…軽蔑してしまうのは仕方のないことだ…人間は感情の生き物だし。
私は子供に真の平和を語れる母親でいたいし、息子を戦争に巻き込む日本にしないため、しっかり政治の行方を見ていく。母親が無知であってはいけないってちゃんとわかってる。自覚してるだから学ぶのよ。
言わなくても伝わること 言わないと理解されないこと
いろいろと迷って
言いたいことも言えずに
嫌われるかも…と、不安で
思いも伝えずにきた
でも、ココロはブレていないし
自分への誇りも忘れていない
何もかも始まったばかり
また、結果を出していけばいい
わからないやつはそのままでいい
でもなぜか!
とりあえず今の
私のココロは晴れ晴れとしている!
私は私のままだ!
このくそったれ!
これからも縁あって知り合った人を信頼をしていこうって思う。
「負」の部分
「負」の部分は人間誰しもが持っているもの。それをどこまで自分で承知して納得して、上手に見方、考え方を変えて生きていくかが上手な生き方になるのです。
— 美輪明宏bot (@_miwa_akihiro) June 21, 2016
その「負」の部分に気づいていない人が多い。
私も自分の「負」の部分を全て把握してるわけではない。だから、いつも何かを気にするように探りながら生きてしまう。
この歳になると間違いを間違いと正してくれる人も少なくなる。
むしろ、間違いそうな道をちゃんと正す人に少しでも成長していなければならない。性格や考え方は曲げられなくても、分別くらいはきちんとわかっている人間になっていたい。
間違いだらけなのが人間。
すぐ忘れてしまうのも人間。
同じことをくりかえしてしまうのが人間。
ただ、間違いと気づいたら突き進まずに、一呼吸おいて生きていけるのも人間。やり方を少し変えていけるのが成長。
冷や水をかける
「良かれと思って」
と、思って助言される方おるのだけど、
そして、私もそう思ってたまに「口を挟む」ことがある。
ただ、公然と言ってしまうと「水をさす」ことになることもなり、その場の楽しい気分に「冷や水をかける」ことにもなる。「正論」であれば、なんでも言い放って良いというものでもない。
「良かれと思って」の大前提もこれまたシラケたムードになってしまう。
「正論」「良識」であったとしてもやり方次第で逆効果。
私はこういう失敗をしながらも、自分はけして間違ったことを言ったわけではない。と、思う時、自分の発した言葉に責任をもつべき、その場からは逃げないように努めている。逃げた時は自分が間違っていたと感じた時。
または、なんでもかんでも同じ方法で発言するわけではない。個別に言った方が伝わりやすいかな?と、思えば個別に伝えたりする。
公然と発言したせいで読んだ人を深く傷つけることがある(無関係な人を巻き込む)。正義を気取っての発言には少なからず、こういう結果に結びつくことがある。
中にはそう仕向けるための「悪意」が含まれている発言であることもある。
私が忘れがちで気をつけているのは、完全に個人的な「ポリシー」の上に立った発言はしないこと。これも時々やってしまうことなんです。
「~であるべき」オレ様論調
こいつは必ずしも正しいことを発しているとはかぎらない。落としどころが明快でないとただの“文句” “批判”で解釈されて、誤解だけが独り歩きしてしまうから。
「中立」っていうのは難しい。少しでも気持ちがどちらかに傾いていたら、片方に誤解を与えるだけで、ただの自論でいう「あるべき論」で終わっちゃう。
「共有」や「共感」なんていうのはできなくてあたりまえ。それでも…
「わたしはこう思う」「きみはどうだ?」という問いかけをしあうというのは、人との関わりの中で「パッション&ロジカル」があった方がこれほど楽しいものはない。と、常々思っている。ただ、こういうコミュニケーションをとるのには、やはりブログ的なものにかぎるのだろう。
Twitterでは大事なことは伝わりにくく、一度発した言葉が単純に傷や溝を残すだけで終わってしまうことが多い。それに気づいて修復に奔走できればまだいいが…垂れ流し…っていうのが、私はあまり好きではない。
まだまだ、未熟な自分だけど140文字制限の中で簡潔に思いや考えを押し付けないようにつぶやく…というのがある種、私のポリシーである。
楽しい空気や雰囲気に「冷や水をかける」不本意なことがないよう気をつけたいと、改めて思った。
備忘録
今週のお題「2016上半期」
1月
・COUNTDOWN JAPAN 1516で年越し
・次男の小学校卒業、中学校進学準備
・エレファントカシマシ、怒髪天の新春ライブ
2月
・次男の卒業謝恩会、余興練習開始
3月
・次男の諸学校卒業謝恩会
・お菓子作りらしきものにはまる
・ガーデニングらしきものにはまる
・次男の小学校卒業
4月
・次男JAPAN JAM BEACH 中学校入学
・ROOTS66イベントLIVE参戦大阪へ
5月
・JAPAN JAM BEACH 2016 幕張(5/3)参戦
・私、50歳になる
6月
今、ここ