ココロの隅っこ吹き溜まり

自分の心の中身、色々ため込む前に吐きだす場所

冷や水をかける

「良かれと思って」
と、思って助言される方おるのだけど、
そして、私もそう思ってたまに「口を挟む」ことがある。

 

ただ、公然と言ってしまうと「水をさす」ことになることもなり、その場の楽しい気分に「冷や水をかける」ことにもなる。「正論」であれば、なんでも言い放って良いというものでもない。

 

「良かれと思って」の大前提もこれまたシラケたムードになってしまう。

「正論」「良識」であったとしてもやり方次第で逆効果。

 

私はこういう失敗をしながらも、自分はけして間違ったことを言ったわけではない。と、思う時、自分の発した言葉に責任をもつべき、その場からは逃げないように努めている。逃げた時は自分が間違っていたと感じた時。

 

または、なんでもかんでも同じ方法で発言するわけではない。個別に言った方が伝わりやすいかな?と、思えば個別に伝えたりする。

公然と発言したせいで読んだ人を深く傷つけることがある(無関係な人を巻き込む)。正義を気取っての発言には少なからず、こういう結果に結びつくことがある。

中にはそう仕向けるための「悪意」が含まれている発言であることもある。

 

私が忘れがちで気をつけているのは、完全に個人的な「ポリシー」の上に立った発言はしないこと。これも時々やってしまうことなんです。

「~であるべき」オレ様論調

こいつは必ずしも正しいことを発しているとはかぎらない。落としどころが明快でないとただの“文句” “批判”で解釈されて、誤解だけが独り歩きしてしまうから。

「中立」っていうのは難しい。少しでも気持ちがどちらかに傾いていたら、片方に誤解を与えるだけで、ただの自論でいう「あるべき論」で終わっちゃう。

 

「共有」や「共感」なんていうのはできなくてあたりまえ。それでも…
「わたしはこう思う」「きみはどうだ?」という問いかけをしあうというのは、人との関わりの中で「パッション&ロジカル」があった方がこれほど楽しいものはない。と、常々思っている。ただ、こういうコミュニケーションをとるのには、やはりブログ的なものにかぎるのだろう。

 

Twitterでは大事なことは伝わりにくく、一度発した言葉が単純に傷や溝を残すだけで終わってしまうことが多い。それに気づいて修復に奔走できればまだいいが…垂れ流し…っていうのが、私はあまり好きではない。
まだまだ、未熟な自分だけど140文字制限の中で簡潔に思いや考えを押し付けないようにつぶやく…というのがある種、私のポリシーである。

 

楽しい空気や雰囲気に「冷や水をかける」不本意なことがないよう気をつけたいと、改めて思った。

 

 

 

 

備忘録

今週のお題「2016上半期」

 

1月

COUNTDOWN JAPAN 1516で年越し

・次男の小学校卒業、中学校進学準備

エレファントカシマシ怒髪天の新春ライブ

2月

・次男の卒業謝恩会、余興練習開始

3月

・次男の諸学校卒業謝恩会

・お菓子作りらしきものにはまる

ガーデニングらしきものにはまる

・次男の小学校卒業

4月

・次男JAPAN JAM BEACH 中学校入学

・ROOTS66イベントLIVE参戦大阪へ

5月

・JAPAN JAM BEACH 2016 幕張(5/3)参戦

国芳・国貞展と中村若冲の美術鑑賞

村上春樹イラストレーター展のトークイベントに参加

・私、50歳になる

6月

村上春樹イラストレーター展に再び行く

 

今、ここ

脳みそフル稼働

 

こう見えて考えすぎる面がある。

誰でも常に何か考えているけどさ。大きな悩みとかではないけど、ぐるぐる何か考えてて脳みそが疲れてるww

 

私はたぶん、人よりも日常の些細な情報や目に入る人の動きや気配、会話している相手が次に何を言うか…5分先のスケジュール、明日のToDo…無意識に頭に叩き込んでいる。

 

5年前はこんなことくらいでヘタレなかったけど、最近はものすごく疲れる…やんなちゃうなぁ~💦

 

なるべく音を遮りたい。

大好きな音楽ですら負担に感じる。長く聴いていられない…これはもう重症だなぁって気がする。

私は愚かな人類の子供だった

手塚治の「鉄腕アトム」の設定は2015年なんだよね。そう、今年なんだ。もし、アトムがいたら…きっと、湯川さんも後藤さんも助けてくれたと思う。でも、アトムはいない・・・

佐野元春の曲に『僕は愚かな人類の子供だった』という作品があります。


幼い僕は泣いた
君が勇気を見せたとき
なぜなら僕には
勇気がなかったから

幼い僕は笑った
君が失敗したとき
なぜなら僕もよく失敗したから

幼い僕は怒った
君が闘いを挑むとき
なぜなら僕にも
理由がわかっていたから

幼い僕は空を駆けた
君が誰かを助けに行くとき
なぜなら君が
手招きをしたから

幼い僕はうれしかった
君が誰かに抱きしめられたとき
なぜなら僕も
誰かに抱きしめられたかったから

君は朝起きて
家族と食事をし
制服を着て学校に行った
君は恋をして
友達と遊び
無茶をして
大人から叱られた
まるで僕と同じように
まるで僕と同じように

一度 君が歩くときの
靴が擦れる音を真似たことがある
でも僕の靴は違う音がした

やがて君は英雄になった
君は愚かな人類のために犠牲を払い続けた
君はその愚かな人類の仲間入りをしたいと願った

僕にはどうすることもできなかった
そして君は
僕の英雄になった

幼い僕は残酷だった
君がアンドロイドと知るまでは
なぜなら僕には愛も正義もなかったから

君がいなくなったとき
幼い僕は泣いた
さびしかったからではなく
なぜなら僕は
愚かな人類の子供だったから


これは“鉄腕アトム”の無垢な正義感を歌った曲。だと、思っている。
でも、今回のISの人質殺害事件をうけて、後藤さんの足跡を鑑みた時に後藤さんもこのアトムのような存在のように感じた。

ISの戦闘員も愚かだけど、ニュースを見てただ嘆いているだけの自分も愚かで、その愚かな人類の犠牲になっている人達のことをもっと世の中に認知させたい。そんな思いで働きかけていた後藤さん。

ビジネス目的でシリアに向かった湯川さん。後藤さんから行かぬようアドバイスを受けていたらしい。それでも彼は行ってしまい、ISの武装集団に捕まってしまう。

後藤さんはたぶん、中東の戦争で苦しんでいる人達の取材以外では中東へは出向かない、そういうスタンスのジャーナリストであったと思う。だから、湯川さんにも行くなとアドバイスしたのでしょう。
まさか、こんな形でシリアに行き、ISに拘束され殺害されてしまうなんて…亡くなった方の事を悪くは言いたくないけど、やはり一人の愚かな人間のために犠牲になったとしか思えない。

日本政府は伝のない中、不眠不休で今の政府に出来る最大限の事をしたと思う。もどかしかっただろうと思う。…後藤さんは何があってもイスラムの人達を責めないでと、言って向かった…。彼の命を無駄にしちゃいけない。
私は安倍さんのこと好きでも嫌いでもないけど、今の政府を批判する気持ちはなくて、それを言ったらISの輩と同類もしくは、奴らの思惑にはまった愚か者と思ってしまう。今は後藤さんの信念を感じたい。
好きか嫌いかという小さな観点だけで、臆測的な批判を言うのはお門違いだなって思う。私もみんなも結局、生きてるだけで精一杯の弱虫なのだから。

日本には法律上、海外へ行く時の規制について強制力がないという。また、邦人がテロリストたちに拘束されたとしても奪還する術も持ち合わせていない。
日本は“平和原理主義”を唯一貫いていいる誇り高き国家です。この精神と法は断じて崩してはならない。でも、どうやって“テロ”という血も涙もない集団から自分や大切な家族、友人たちを守ったらいいのか…情けなど通じない集団にどう立ち向かえば良いのだろう?

自分や世の中がISに不安を覚え、怯えながらにやけた顔で生活してることが、とても違和感があり不気味にすら感じる。
SNS内の優しくて楽しくて平和な言葉たちが何もかもを流していく様を眺めていると、複雑な心境に陥る…。