ココロの隅っこ吹き溜まり

自分の心の中身、色々ため込む前に吐きだす場所

生き方、活き方、逝き方

『人の振り見て我が振り直せ』
誤解されやすいのは、悪い部分だけを見て気をつけよう。と、思うこと…。でも、それだけではなくて人の良い部分も見て見習おうっていう気持ちも含まれているんですよね。

私は自分ひとりの力で生きてきたわけではない。
親や先生や社会に育ててもらってきたと思っている。自分のふるまいによってはその恩ある人達の顔に泥を塗ってしまったり、恥をかかせてしまうことになりかねない。

しかし、歳を重ねるにつれて自分に“慢心”“傲慢”な態度が出てしまうことがある。それはいろいろな経験の積み重ねや知識の蓄積によるべきもので、どういうわけか「自分は何でもわかっている。」という気持ちにさせてしまうらしい。
けれども世の中には“謙虚”“尊重”の心を兼ね備えた人もいて、自分の浅はかさを気づかせてくれる方が沢山いる。

最近…

  • 人のモラルには厳しい人は自分には甘いのね…と、思った朝…
  • ごめんなさいに心がないから、反省がないから何もなかったようにふるまえるんだな。と、思った夕刻。なんで、平気でいられるんだろ…意味わかんね。
  • 自分の正義なんてさ間違いだらけ。誰か私が間違ったことしてたらご教授くださいね。「正義を気取る」のは悪くない。でも、間違いがあるのも人ですから、どうか私が何かしでかしてたら教えてね。
  • 人にしたことは形を変えても自分に返ってくるだろう。表でしたことは裏でされ、裏でしてることは表で暴かれる…もしくは、全く予期せぬ方向から…
  • 己を貫き通すことは難儀なことだな…切っ先が曲がっていたらやはり、急所もそれる…スッパリ切れずに苦しみだけを与えてしまう。 ココロが曲がっていれば言葉も届かない。逃げないココロでまっすぐ生きたい。

 こんなことをtwitterでつぶやくことが多くあった。

「水清ければ魚棲まず」
正論を声高に掲げてもそればかりでは、最終的に人から疎まれるだけでなく、思いは伝わらず結局は孤立してしまう。

そうではなくて

「源清流清」
自分を水源に例えた時に自分が間違っていなければ、流れも清らかで結果もよくなる。と思って、日々自分を翻って考えることが大事になるな…そんなことを思った。

私には「生き方、活き方、逝き方」を教授してくれる師匠がいる。基本は常にそこにある。ブレることがあればきっと足下から全て崩れ落ちるだろう。

とはいえ、未熟がゆえに苦手な人、嫌いな人はいないわけではない。許せない人もいる…。でも、それはきっと相手も同じことを思っているはずです。だから、自分の志や誇りだけは忘れずにこれからも進んで行きたい。ちゃんと自問自答しながら自分の心と関わりある人の心と上手く共存できるよう、努力をしていきたいと改めて思ったのです。
そして、気づいたら明るく楽しく暮らしていれば、自分の勝利だと確信する。それが答えなんだと…。