ココロの隅っこ吹き溜まり

自分の心の中身、色々ため込む前に吐きだす場所

ネット情報過多、ほとんどゴミ。裏ネットでうごめくのは、ほとんどがクズ。

SNSでよく情報を得るためにやってるという人が多いのだけど、本当に情報を得たいと思うならSNSから得るなんてほんと無意味だと思う。ゴミの山から資源を探すようなものですね。

嘘つきが多いし、口コミからの受け売りで自分が体験したわけでもない…。それを真正面から信じてしまうっていうのは、見ていて痛々しさすら覚える。

なんで、見ず知らずの人の言うことを信じられるのだろう?
どうしてオフィシャルとかから、自分で調べようとしないんだろう?

冗談で聞いてるのか?知ったかなのか?わかんないけど。

最初は何もわからなくて当然、知ってる人に聞くのもいい…でも、最初から何も失敗なくやれることなんてないし、結局誰かに聞いてやったことが失敗だったら、教えてくれた人のせいにするだけ…。

私は最近、5年使っていたtwitterのアカウントを削除することを決めた。ゴミみたいな情報を垂れ流しにして、さも『発言の自由』を正当化するような輩がいる。楽しく語らうのは簡単だし、自由にやっていただいていいけど、全員がそれを歓迎しているとは思わないし、不特定多数のいろんな人がいるのに「ドヤ顔」で、盛り上がってしまうその無知さに嫌気がさした。

長年慣れ親しんだアカウントを削除し、新しいアカウントを作成した。その長年慣れ親しんだアカウントを、自分の快適さを求める理由だけで削除するわけがない!そうじゃない?どれだけの思いで決断したか、そんなこともわからないのは、逆に言えば自分の快適さしか求めていない人しか発想できない事だと思う。そういう人は快適さの邪魔になるものを安易に排除する。見ての通りだ。

自分の価値観、物差しで人を見てしまうクセがついてしまうのもSNSの怖さだと思う。全てデータ化され流されるネットの世界。

私は人とのコミュニケーションを重視したいのです。情報発信なんて二の次。聞かれれば知ってる範囲で教えてあげたい。でも、それだってコミュニケーションがしっかりとれた中で、自分で体験して知りえた情報のみだ。出所のわからない憶測、情報など無責任に教えられるわけない。だから、コミュニケーションがきちんととれるように、新たにアカウントを作成した。一から出直せばいいと。

絵画も本物を観に行かなければ、大きさや色合いはわからない。パソコンのディスプレーで見て、実際に本物を見た時の圧倒されるほどの感動とは、見に行かないと感じられないことだ。

LIVEも同じこと。DVD化を安易に求める人もいるが、実際に行けたり行けなかったりすることも全部ひっくるめても、行った人にしかわからない感動がある。その感動はDVDで観た感動とは月と鼈ほどに違う。

いろいろな事情のある人がいる。経済的、健康面、家庭の事情…それで、せめてDVDでせめて行ったの人の話しで…と、言うのもわかる。だけど、それは結局は自分の感じたものでもないし、リアルで感じた感動でもない。

私が言いたいのは「情報化」された人の話しや、デジタル化された映像で満足しないで是非、自分もその場に行く!と、いう“糧”にしてほしいという事だけです。人の話しに流されず、心乱されず…自分の目で耳で五感で感じてほしいということ。それが結果的に人の感じた事と違っていても、それは間違いではないし自分で感じた事!という事実で正解なのだから落胆する必要はないでしょう。

これは私も経済的、家庭の事情で体験できなかった時期を乗り越えてきたから言えること。順風満帆に色々やってこれたわけではないから言えるの。

人との繋がりもネット上から対面で話す。このことで人となりがわかるというものだ。会って話してみないと、事実なんてわからない。まぁ、一度や二度じゃ人の事もわからないわけだから、ネットの中だけならなおさらだよね。

 

また、SNS、ネットには闇もある。表向きには仲良しこよしを装っても心の中までそうとは限らない。妬み・恨み・嫉みに溢れている。知られていないという過信というか、知られていたって別にかまわないという開き直りか?

悪の限りが闇の中には存在している。おぞましい…
「人として」という概念はまず皆無。

自分が清廉潔白の人間とは間違っても言わないないし、思ってもいない。悪知恵も働くし腹黒い。でも、人間なんて多かれ少なかれ皆そんなものだ。そこを隠して生きて生きたいと考える人ほど、信用ならない。疑いの目で見ながら付き合ってしまう。寂しい事ですがそれが人間関係。

但し、生きている以上、人間関係がリアルであったりバーチャルであっても、自分は血の通う人間なんだ。と、いう意識は持ってSNSも利用したい。その解釈を解きたくて私は語るのだと思う。

 

黙っていられないモヤモヤは吐き出す

人から投げかけられた質問に細かく丁寧に回答しただけで、何故か変な空気に包まれた。間違ったことは言ってないし、押しつけでもない一言だったのに。

最初のつぶやきも自分なりに丁寧にお願いする体でしたものだったのに、その質問者は横柄だった。私は心の中で「なんて、失礼な人なんだ。」と、少し怪訝な気持ちになったけれども、丁寧に一つ一つ対応をした。それでもその人は「考え方が違う人には噛みつく」的なことを言っていた。ふっかけてきたのはそっちだし、

 

「それは違うだろ?」

 

私はそう思っていた。幸い私の最初の呼びかけに共感してくれる人も多くいてくれたし、その人の反対意見のおかげで私の言ったことがどういう趣旨のことなのか、多くの人に詳しく伝えることになったとも思っている。

そもそも、私は「正誤」をはっきりさせたいためにつぶやいたわけではなく、私はこういうスタンスなのでできれば配慮していただきたい…。そういうお願いをしただけだった。

たぶん、あのやり取りを見た方はわかると思うけど、私の言ってることは概ね筋は通っていたと思う。相手の方が自分の言ってることに矛盾やら筋の通らない事があった。というかボキャブラリーが乏しく、なんの説得力もなかった。まだ、私の方がマシだと感じた。と、いうかあの人は私に何が言いたかったのか…疑問しか残らなかった。

私は自分の考えや意見を押し付けたわけでも何でもない。自論を展開したわけでもない。広く一般的に配慮されてることを自分も言ったまでだった。それを無視して何か言ったりやったりしても、そこには何もない…何も残らない。

 

「ただの馬鹿者だ。」

 

母親論

私がブログをつけるのは、自分の変化を記録するようなもの。心は変わるからその過程がわかるから。あと、自分との約束を守るため。自分に誠実であるために。

小泉今日子がCMのセリフで
「変わらないね。って言われるより」
「変わったね。って言われる方が私はうれしい。」と、言ってた。
彼女の本当の気持ちかはわからないけれども、人生の中でいろんな人と出会いいろんな場面に出会い、それに対してどう関わって来たか?経験値で良い意味でも悪い意味でも人は変化…進化できる生き物だと思う。

でも、自分で選り好みしてしまう性格ならば、良いところは伸び悩み、成熟せぬままジタバタした大人になってしまうのではないだろうか?
それも人の生き方の一つで否定はしないけれども、例えば家庭を持ち妻として母となった時、独り身の時の感覚のままでは、キャパオーバーになってしまうことは大いにある。どこかで自分自身を変革しなければ乗り越えられない場面もあるだろう。

人というのは、裏表どころか裏表裏なのが人間なのだと思う。そうでなきゃ暮らしていけないよ。世の中なんてさ。それを体裁整えようとするからがんじがらめに絡まっちゃうの。その絡まった感情は時に人に解いてもらったり、人の意見に従ってみたりして学ばないと、いつまでも同道巡りになってしまう。プライドが邪魔して変革できないのなら、そのケチなプライドが自分をダメにするんだな…って、私は4、5年前に結論しました(笑) ※twitterのつぶやき

何しろ4、5年前までの私は威圧的なところも多くあった。今でも偉そうだったり上から目線の時もあるけど、これでも丸くなった方だ(笑)

 

さて、今朝の出来事…

夜中に目を覚ました次男が、シンクの中に放置した食器を食洗器にいれて洗っておいてくれた。しかし、全て上向きに入れてたからお湯が器に溜まったままだった(笑)今はとりあえず指摘せずありがとうと、伝えたよ…ww ※twitterのつぶやき

これが私の子供の頃だったら、母はこう言っただろう。

「どうせやるなら、お茶碗は逆さにして入れるのよ!」って

褒められたい私の心はズタズタですよ(笑)

褒められたい子供の心理を考えるなど、全く持ちあわせていない母でした。
私は子供を持ってからまず、自分を見つめ直すしかないと思った…。母は常にヒステリックに怒り、イライラしていた。ふとわけのわからない時に可愛がってみたり、愛おしそうに見る母が嫌いだった。何が気に入らなくて、何が気にいってるのか?わからない!私はそう思うことしかできない子供でした。だから、次第に親のご機嫌顔色を見るような子供になりました。

子供は褒められたいときに褒められないと、ダメなんだろうな…と、学習しました。

自分の母親が反面教師なのでもちろん尊敬できるところは真似るけど、嫌だったところは意識してしないようにしたり、その逆をしたりする。

時々、ダメ出ししちゃうときもあるけど💦

 

母は外面が良かった(笑)いつも、母は外に向けてニコニコして周りに気配りをしていたから、「良いお母さん(奥さん)」という評価を得ていた(家の中では全く違う人格)。だから、私もその母の為に良い子供でいなければならなかった。おかげで私も世間様からは

「○○ちゃんはしっかりしてて、お利口ね」
「○○ちゃんがしっかりしてるから安心ね」って言われた。

私は別にしっかりした子供でいたかったわけではない…。普通にお母さんに甘え守られる存在でいたかった。親から受け継いだものは知能性格。

私の知能は高くない(笑)。性格も卑屈な方だと思う。でも、それはそういう家庭環境で育ったから仕方のないこと…と、諦める気持ちがなかったのが救い。

私は自分の子供には私のようになってもらいたくない。そんな思いがある。今思えば母も蝶よ花よで育てられ、人見知りが激しくお友達作りが苦手だったから周りに愛想よくしていたのだろう。と、理解してる。
私も人づきあいは得意な方ではない。でも、私はその愛想のよさは受け継いだのだろう。ただ、母のように自分の立場を守るために世間に気を遣うのではなくて、子供たちを守るための術としての「愛想」は必要なのだろう。と、感じた。

子供達もそれなりに愛想は良く育っている(笑)。馬鹿でもいい愛想が良ければ生きていける!(笑)

 

私って奴

twitterをやっているとたまに自分というものを分析できる時があります。

今日は…

私はわりと気にしいなので、常に深読みするかな(笑)そうなの色々、自分ってまだまだだ…って感覚ばかり…死ぬまでそうなんだろうなって思う(笑)

なんか、完成形は生きてる間にはわからないじゃないですか?死んだ時が自分の完成形で…自分で判断できないよね…。そう考えたらもう常に気にしいの深読みで生きて、それが私でしたって結果かと思う(笑)

私は基本、人の顔色をうかがいながら暮らしているような気がします。
人間ですから間違いや過ちもしますが、なんとか「しくじらない」ようにと伏線貼って、導線をしっかり頭の中で組み立てて動きます。先回りも先読みもします。
イレギュラーなことも沢山想定します…。仕事においてはこれらが顕著にでます。なので、指示や期日があいまいだと少し困るので、始める前に自分が知っておきたいことは全て聞き出し、記録を残します。完璧主義ではないのですがそうすることで、相手は満足して私もそれなりに評価されて、居心地の良い環境になります。

 

パラリンピックの閉会式。東京パラリンピックのプレゼンを観て…

生まれながらに障害のある人はもうそれが当たり前で、生きてる過程でそうならざるを得なかった人は死ぬ思いの努力をして…そう考えただけで、健常者と呼ばれる私は甘ちゃんで、すぐ感動したり涙が出たりする。もっとできるはずなのに…って恥ずかしくなります…。

障害者の方の中にもいろんな考え方の人がいるから、そうなるともう健常者も障害者もどちらも変わらないから、それだけで隔てる物はないとは思うんだけどね。いろいろと難しいです…。

自分の中にある『差別』哀れんだりしてないし、ハンディキャップのある人たちが超人的な姿をみると…自分が逆に惨めに思うことがあって、これも『差別』なのかな…?と、少し落ち込みました。

 

今日もどこかで小さな争い事が起きていたり、大きな喜びも起きている。時々、自分が世界一哀れだと思うことで、自分の置かれた環境の幸福を確認したりする。

生き方、活き方、逝き方

『人の振り見て我が振り直せ』
誤解されやすいのは、悪い部分だけを見て気をつけよう。と、思うこと…。でも、それだけではなくて人の良い部分も見て見習おうっていう気持ちも含まれているんですよね。

私は自分ひとりの力で生きてきたわけではない。
親や先生や社会に育ててもらってきたと思っている。自分のふるまいによってはその恩ある人達の顔に泥を塗ってしまったり、恥をかかせてしまうことになりかねない。

しかし、歳を重ねるにつれて自分に“慢心”“傲慢”な態度が出てしまうことがある。それはいろいろな経験の積み重ねや知識の蓄積によるべきもので、どういうわけか「自分は何でもわかっている。」という気持ちにさせてしまうらしい。
けれども世の中には“謙虚”“尊重”の心を兼ね備えた人もいて、自分の浅はかさを気づかせてくれる方が沢山いる。

最近…

  • 人のモラルには厳しい人は自分には甘いのね…と、思った朝…
  • ごめんなさいに心がないから、反省がないから何もなかったようにふるまえるんだな。と、思った夕刻。なんで、平気でいられるんだろ…意味わかんね。
  • 自分の正義なんてさ間違いだらけ。誰か私が間違ったことしてたらご教授くださいね。「正義を気取る」のは悪くない。でも、間違いがあるのも人ですから、どうか私が何かしでかしてたら教えてね。
  • 人にしたことは形を変えても自分に返ってくるだろう。表でしたことは裏でされ、裏でしてることは表で暴かれる…もしくは、全く予期せぬ方向から…
  • 己を貫き通すことは難儀なことだな…切っ先が曲がっていたらやはり、急所もそれる…スッパリ切れずに苦しみだけを与えてしまう。 ココロが曲がっていれば言葉も届かない。逃げないココロでまっすぐ生きたい。

 こんなことをtwitterでつぶやくことが多くあった。

「水清ければ魚棲まず」
正論を声高に掲げてもそればかりでは、最終的に人から疎まれるだけでなく、思いは伝わらず結局は孤立してしまう。

そうではなくて

「源清流清」
自分を水源に例えた時に自分が間違っていなければ、流れも清らかで結果もよくなる。と思って、日々自分を翻って考えることが大事になるな…そんなことを思った。

私には「生き方、活き方、逝き方」を教授してくれる師匠がいる。基本は常にそこにある。ブレることがあればきっと足下から全て崩れ落ちるだろう。

とはいえ、未熟がゆえに苦手な人、嫌いな人はいないわけではない。許せない人もいる…。でも、それはきっと相手も同じことを思っているはずです。だから、自分の志や誇りだけは忘れずにこれからも進んで行きたい。ちゃんと自問自答しながら自分の心と関わりある人の心と上手く共存できるよう、努力をしていきたいと改めて思ったのです。
そして、気づいたら明るく楽しく暮らしていれば、自分の勝利だと確信する。それが答えなんだと…。

古着deワクチン

亡くなった母の衣類や靴が沢山ありました。

ブランドものはないけれど大事に着ていた物やほとんど履いていない靴など。

捨てるのももったいないくらいのもので…何かに役立てられないかな?と考えているところでした。

「古着」「寄付」で検索していたらこのサービスに巡り会いました!

 


とりあえず4箱分ですが発送しました。

まだまだあるので専用の送り状とダンボール箱を追加注文しました。

 


最初の中身は・・・

 ☆夏冬衣類(男女・子供)

 ☆靴、サンダル、スニーカー

 ☆バック類、スカーフ、ストール

こんな感じです。

 


「もったいない」という気持ちが

発展途上の女性に雇用。子供たちにポリオワクチンが・・・。

ささやかなことですが、役立てられたことに喜びがあります。

 


『古着deワクチン』

 

最期の階段を上り始めた私の“10のルール”

お題「マイルール」


①ぼやけた輪郭の影が次第にその正体を現そうとしていく。
 それは、かつて知っていた姿とは全く違う姿に変わってしまっているはず

②時間が自由になるからといって、心まで自由ではない。
 時間があればあるほど好きなモノしか周りに集めない。
 

私は50年生きてきた。
同じように50年生きてきても、そのヒトトナリと言うのは十人十色だ。

私はもう、初老だ。寿命がくるまでのカウントダウンが始まっている。嘆いて悔やんで愚痴って苛ついて最期を迎えるなんてまっぴらだ。

もっと気の利いたことが言えないのかぃ?って感じるいい歳した人がいる。どういう生き方をしてきたのか?どういう人生を思い描いていたのか?その人からは全く深みを感ずることができないでいる。発言の一つ一つがその人の生きてきた生き様だとしたら、私ははっきり言う。ああいう風にはなりたくないと思った。

死相がその人の生きてきた人生を映し出しているなら、私は笑顔で死んでいたい。誰もがそう望むであろうけど、眉間に皺を寄せ唇をへの字にして死ぬ人もいるだろう。

私はもう、初老だから臨終のときの死相について真剣に考えてる。だから、これからの人生は以下の“10のルール”に沿って生きていきたい。

①人のせいにしない。
②人に感謝をする。
③人を恨まない。
④人をうらやまない。
⑤人に親切にする。
⑥人の話を聞く。
⑦人のふり見て我が身を振り返る。
⑧人の無神経は許さず
⑨人の悲しみには寄り添う
⑩人を沢山、好きになる

 最期は人に囲まれて迎えたい。そのための準備期間に入った。