ココロの隅っこ吹き溜まり

自分の心の中身、色々ため込む前に吐きだす場所

52歳になって…

そして、あれから6年が経ちました…。年月が経つのは早いものです。

2012年の誕生日のあとに綴っていた日記です。2か月前に「湯を沸かすほどの熱い愛」を視聴した時の日記をあげて、関連して実母の闘病、介護のことをあげています。

これには前年にもエピソードがあって、私の人生の中で本当に密な時間だったな…と、思えるし物理的な親との別離、心理的な故郷との別れを体験したので改めてここに残しておきたいと思う。

2012年06月06日21:17 『46歳になって・・・』


来週12日は、エレカシ宮本浩次の46歳の誕生日ですが、私は先月の28日で一足先に46歳になりました。

さてこの先のこの日記は、個人的かつ描写的にリアルで重い内容になっていますので、精神的に自信のないかたは “絶対” に、読まないでね。

誕生日の前の週(21日)には母の手術がありまして、それは無事に終えることができました。
病名は・・・ここで書くのもどうなのか?と、思ったのですが・・・ぶっちゃけ“卵巣癌”で、ございました。

最初に見ていただいた消化器科の先生の診断から、本屋で医療書から色々調べたり、ネットでも調べて素人なりにたどり着いた病名がまさにそれでした。
手術で病巣は取りましたが、腹水にがん細胞があったために取りきれない細かい、がん細胞が下腹部に残っており抗がん剤治療」が必要となり、今週の月曜日にその1回目が行われました。人によって抗がん剤を投与している間には、副作用による苦痛が伴う・・・そんな説明がありましたが、幸い母にはそれほどの苦痛はあまりなかったようです。

でも、今日訪ねていった時には多少の影響が出てました。それでも、

「このくらいで済んでると思う」
と、気持ちは強く持っているようです。これからあと3週間ごとに計5回行います。

 

私は術後に、母から取り出された病魔に襲われた、卵巣と子宮を見ました。執刀医の先生からご覧になりますか?と聞かれ迷わずに

「はい」と答えました。

私が46年前に生まれ出るまでいた場所ですから・・・。

所謂【故郷】なんですよね。もう戻ることのできないかけがえのない場所。本来ならば見ることもなかったその場所・・・ちゃんと見届けました。

抗がん剤治療の説明を受ける前に、母はその取り除いたものの写真をもらったそうです。

「娘には見せてません・・・」と、母は先生に言いましたが、 
「いや、実物見たから」と、いうと・・・驚きと共になんとなく嬉しそうな? 母はなんとも言えない顔をしました。どんなことを母は思ったのか?
正直、私はわかりません。

母娘としては非常にクールな関係なので・・・

生まれてきて、母から確信的な愛を感じて生きてきたわけではなく、どちらかと言えば母の運命に振り回されている・・・ 。そんな感じすらするのだけど、それでもなんとなく母のパジャマや肌着を持ち帰り、洗濯をして届け、食べたいものを聞いて持って行ってあげたり・・・ そんなことを無償でできるのは、当たり前に「血を分けた家族」だからなのだと、今更ながらに気づいてます。

そんなこんなで今年の46歳の誕生日は・・・私自身が厳粛な気持ちで迎えました。 

今はもう、両親共にこの世にはいません。

私が二人の息子の故郷なのだと思うように…なりました。

長男は2年前、大学時代からバイトで6年位務めた進学塾を辞め、児童クラブの非常勤職員になり今年の春から常勤職員になりました…。彼の人生は正直、将来に夢や希望が薄く目の前の趣味に没頭するのが楽しみなくらいです。

但し、彼はバイトや非常勤でありながらも仕事に対しては、真面目に熱意をもって取り組んでいたのを知っています。願わくば正社員としてさらに社会の中に飛び込んでほしかったし、その中で人間として成長もしてほしかった。

ようやくその時が来たという事で、朝から夜まで働くということの厳しさ、正規としての責任の重さを徐々に味わっているようです。時々、夕飯を食べさせながら調子はどうなの?職場の雰囲気は?と尋ね彼の話を聞いてます。

幸いこういう関係性が持てたことはよかったです。

次男は今年、受験生です。長男の時はそれなりに胃の痛む思いをした。でも、次男に関しては“気に病んでも始まらない”と、いう気持ちに(笑)その分、エンジンのかからない次男の様子に夫が苛立ち…💦

とうとう、深夜に説教されてました。就寝していた私も目が覚めました。終了後、次男に

「どうした?大丈夫なの?」と、たずねると

「大丈夫だよ。お母さんのせいじゃないし全部、オレが悪いから心配しないで」と…

父親と息子が話し合う時間はとても大事。見守るしかないです。あとはいろいろ後押しいなきゃですが、何分にも二人の息子…親の話しが響いているのか…まったくわからず、そのうち私もキレるかもしれない(笑)

彼らの避難所となれるよう私も親として成長しなきゃ…そんなことを思った誕生日でした。

https://www.instagram.com/p/BjSG5CUh4gu9SMeMZc1zDWjl3QrNEsy2X8g8J40/

長男が正規雇用になってからの #初任給 で5月生まれの私達夫婦の誕生会を開いてくれました。私達家族の祝い事で使っている、#浅草ビューホテル のビュッフェレストラン #武蔵 です。遅咲きの社会人でまだまだ駆け出しですが、これが巣立ちの一歩のようにも感じて、心から嬉しくて忘れられない日になりました。少しずつ沢山の種類を美味しくいただいたよ🎵

人の子 2013年08月04日 17:15

2013年7月


なんだかんだ言っても私は“人の子”だったのかしら?と思う1ヶ月だった。
6月に母が認知症に?という症状があって、MRI検査をしたところまでは日記に記しました。
その結果が6月28日にあったのですが、医師から告げられたのは卵巣がんからの転移が脳にあったというものでした。この頃は自分の足で歩くにも人の手がないと無理な感じでしたが、何とか歩くことはできていたし、食事も少量ですが口から食べていました。医師が言うにはMRI写真をみて、癌の大きさがん細胞の数から歩くこと食べることができているのが不思議なくらいだという状態の説明。そのくらいに進行していて、1〜3ヶ月で歩くことも食事もできなくなるでしょう。そういうものでした。
検査をした病院では治療はできないというので、元の病院へ送り返すような紹介状を渡され、そちらに今後のことは相談してくれと戻されました。
医師からは

「専門の病院を紹介してもらうにしても時間がかかるし、施設のようなところも考えたほうがいいですよ。」


そんなことを言われました。だったらあなたがその病院なり施設を紹介してくれよ!あなたが相談にのってくださいよ!そんなことを思った・・・。医者(病院)同士の筋なんて患者やその家族には関係ないのに・・・。

私はその1〜3ヶ月で歩けなくなり食事も摂れなくなるというのは母の『余命』と、捉えた。
病院は治療し治す目的でないと入院ができない。母は治る見込みがないので入院はできないのだ。
そこでホスピスを考えた。しかし、ホスピスに入れるにしても医師の紹介状がいるようで、そんなものを準備しているほど物理的にも時間的にも余裕はなかった。
私は母を家で介護看病することを決め、介護認定の手続きを始め、自宅の近くに部屋を探した。幸いにも自宅から歩いて1〜2分のところにあるマンションに、手頃な広さと家賃の部屋を見つけ即効、実の弟に借りる手配をさせた。

7月上旬新しい部屋が決まったと同時に介護認定の面談も終わり、あとは引越しをし介護認定が降りるのを待つのみとなった。
ただ、家で母を看取るにはどうしたらよいか?と、考えたとき「在宅でホスピスケアができないか?」という発想が浮かんだ。
自分で色々と調べたり、高齢者支援室へ相談したところ区内に自宅で最期を迎えたい人、またはその家族を支援する医療法人をみつけることができました。

7月に入ると母は自分では歩けず、食事が摂れなくなっていたので、介助で寝室から座敷へ移動させ、介護食などを購入し食べさせはじめていました。7月中旬になる頃、母は自分では起き上がることもできないほどになっていて、おトイレにも行けなくなっていました。

猛暑が続いていた7月12日の朝、おむつの取替えと着替えなどの世話をしようと、母の体を起こすと体がいつもより熱くなっていて、私の呼びかけにも反応がなかった。慌てて救急車を呼んで救急搬送をした。脱水症状と衰弱があって入院をしました。
点滴で脱水症状も衰弱もなんとか回復し7月20日に退院という運びになりましたが、母の様態が良くなったわけではなく、母は言葉を発せなくなっていました。帰ってきた場所は母を介護するために借りた部屋。

7月21日(日)母の妹たちが長野から見舞いに来てくれました。誰が来てくれたのか、何を話しているのかは分かってはいたようだけど、言葉は発せませんでした。

7月22日(月)朝、前日に妹達と会えたことに安堵をしたのか?朝の呼びかけに母は目を開けなかった。ガーガーというイビキのような呼吸をして眠ったままな状態でした。翌日の23日も目を開けることはありませんでした。

7月24日(水)朝の検温で39.0°『在宅ホスピス&介護』を一貫で見てくれるところへ、外来問診に行き即日、医師の診断をしてもらいました。医師は母の病気の進行が想像以上に進んでいることに驚いていました。その場の診察では肺炎を併発していると言いました。そして、「このまま呼吸が静かになって、眠るように安らかに逝かれると思います。」と、私に告げました。
24日の午後ヘルパーさんが早速来てくれて、私では手薄だった体のケアを十分にしてもらえた。特に口の中はなかなか上手にできなかったので、ヘルパーさんのおかげでさっぱり綺麗にしてもらえた。
ヘルパーさんの「お体のケアがきちんとされていて驚きました。よく頑張りましたね。」と言ってくださったことが、私や弟を救ってくれました。

7月25日(木)朝、もうそんなに長くはないだろうと感じていた私。母の口に小さな氷を含ませてあげ仕事に出かけた。仕事をしている間も電話がなるのでは?と、気が気じゃなかったが「私が帰るまで待っていてくれる!」という根拠のない自信があった。とにかく、できるだけ仕事を片付けておかないと!と必死にこなした。


何事もなく帰宅する途中、母ととても仲の良かった友人と会った。私は「今日の夜、時間があったら母に会いに来ませんか?」とお誘いした。その方は「今から行ってもいい?」と言ってくれたので連れて帰った。
お見舞いにも来てくれた友人で、部屋にいる声がけにも反応しない母の様子を見て号泣した。お見舞いに来てくれたときは少し会話ができたので、こんなに急変しているとは想像ができなかったのだ。


この日は午前と午後ヘルパーさんが来てくれて、午後は体と口腔のケアをしてくれた。
夜、私が一旦、自宅へ帰ると電話が鳴った。同じく近所の母の知人からだった。

「お母さんにお会いしたいのですが…」という電話でした。

私は「私はもう今夜は自宅へ帰ってきてますが、弟と息子たちがいるのでもしよければ、明日と言わず今すぐに行ってあげてくれませんか?」と話した。その知人は他の親しくしていた人も一緒に連れて会いに行ってくれた。
その人たちが帰宅をし旦那と息子が自宅へ帰ってきた。私が寝床に入って入眠した時、枕元の携帯が鳴った。弟からでした。


「母さんの呼吸が止まったみたい」

7月25日(木)23:00 在宅ホスピス訪問看護師さんに連絡。
家族で母の部屋に行く。首周りにまだぬくもりが残っていましたが、母は静かに目を閉じて呼吸もしていませんでした。

7月26日(金)00:15 訪問看護師さん到着。00:22に死亡を確認してもらう。
MRIの結果から約1ヶ月でした。

私は母のことを日記で記すとき、マイナスなことしか書かなかった。あるときにはもし、母が介護がなければ生きられなくなった時に見てあげる気持ちがない。と、すら書いたこともある。できれば施設へ入れてしまいたいと思っていたほどです。
その私が何故、1ヶ月という短い期間ではあったけど母を看てあげることができたのだろう?そうなったら弟に全て任せりゃいいと思っていた私が・・・不思議です。


7月に入って1度だけ母が私を認識しない時があった。

「今日、病院の日だったわ・・・ねぇ、(私の名前)に聞いてみて」と私に言ったことがあった。

「え?(私の名前)は私だよ」と、言うと

「えーやだぁ、違うじゃない!」と、言うと母の表情が暗くなった事があった。私はわかってはいてもなんとなくショックでした。
それから毎日、「私が誰かわかる?」という確認をしていた。最初は「わかるわよぉ!(私の名前)」と言っていて、そのうち言葉がでなくなり、わかるという表情で頷くようになる・・・そんなふうでした。


思えば介護を始めた時はどんどん動かなくなる母と、言うことはわかっているのに協力的でない態度に苛立ちがあって、私の顔が疲れと険しさが出ていて認識できないほどになっていたのかも?と思いました。それからどうせ介護するなら、なるべく明るく優しく対処しようと決めて接しました。


脳に出来た腫瘍がよほど痛かったのか、顔が能面のように険しい表情になり始めていたけど、仕事から帰り「お母さん、ただいま」というと穏やかな顔になり、食べ物やゼリーを与えようとしてもなかなか口を開けずに、飲み込むことも困難になってきても、私が「アーン」とすればうっすら口を開いて、もちろん時間はかかったけど器に一杯のゼリーを完食してくれました。


新しい部屋での介護、2日目の夜、母の意識がまだあった最後の日も穏やかな顔で、私が口に運ぶゼリーを食べましたが、母は動く右手で私に手を合わせました。


母に対してはいろんな感情がありましたが、その仕草で私はそれまでの全てを忘れました。許せたわけではないと思う。そこまで出来た人間ではないし(笑)でも、もうなんのわだかまりもなく、亡くなってお骨になり遺影を見ると寂しさすらこみ上げます。


25日の深夜に亡くなって、30日が通夜、31日が告別式と時間が空いてしまったのだけど、その間に交友関係の多かった母にたくさんの人が弔問に来ていただけた。
その人たちと最後のお別れできて、母も母の親しかった人達も悔いはないかと思う。

私は鬼や悪魔の子ではなくて「人の子」だったんだなぁと、しみじみと思うことができました。

「湯を沸かすほどの熱い愛」をテレビで視聴した

波乱万丈な人生を生きる一人の女性“双葉”が余命宣告を受けてから、生きている間にするべきことを成し遂げていく話し。

血縁関係を超えた『家族愛』がテーマ。だと思う。

湯を沸かすほどの熱い愛 通常版 [DVD]

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実際、こんなに薄幸な人でバイタリティーにあふれた人いるのか?

「映画なのだから、こんな人物などいるわけはない。」

って、思う人もいるでしょうが最近、私は身近にこの主人公のような波乱万丈の人生を今、生きている人と知り合った。

2年前にもこの人にいったい何が起きたの?って思うような人とも知り合うことがあった。

事実は映画よりも奇なり…というところ。

むしろ、映画とかの方が緩衝材が合間に施され、リアルさはもちろん欠けるし「笑い」「救い」があるから安心して観ていられる。

現在進行形で今の宿命と向き合い生きている人が身近にいると、自分の甘さが浮き彫りにされて何かエールを…なんて、自分で自分をせせら笑ってしまう。

っていうか、そういう人は本当にタフでいられるのだろうか?愛情深く生きれるのだろうか?現実には多少でも捻くれたり、薄情になったり、人や世間をさげすんだりするものだと思う。

双葉が何故、タフで愛情深い人として成長できたのか?私はそのバックボーンが知りたい。と、思った。

主人公の双葉は末期がんに侵されてしまうわけですが、私の母も2013年に癌を患って他界をした。末期がん患者の形相は見事に再現がされていて、私は母の顔を思い出さずにはいられなかった…。

2012年5月に卵巣がんが見つかって手術…抗がん剤治療を半年続け経過観察。2013年6月に癌の転移が発見…余命長くても2~3ヶ月と言われた。

次の記事はその時の日記をこちらのブログに移行しておこうと思う。

 

yumcha-low.hatenablog.com

ど素人!ガーデニング

亡くなった母親は花いじりが好きだったけど、特にキレイに何かを咲かせていた記憶がなくて(笑)でも、植木の類が軒先に無造作に置いてあった。

アロエとかエンジェルトランペット、紫陽花、モッコウバラ…地植えできないから大きな発泡スチロールの容器で育ててた。他にもなんかわからない植物の植木。

そんな感じだったから、母が植木に水をあげたり何かしてても植物を育てることに、なんの興味もなかったし逆にうっそうとさせてるだけで、邪魔に思っていたくらいでした。

母が亡くなったあと家をリフォームすることになった時、その植木の類いを一掃しなければならなくなって処分したのですが、家がキレイになってセットバックさせたおかげで、軒先も少しひろくなりました。

気がつけば私も子育てがひと段落して、パートで仕事はしていたけど普通の生活の中でなにか、楽しみにできることを考えていたら急に何かを育ててみたくなった。

子犬や子猫…小鳥…それでもよかったのですが。2016年、気がついたらネットで花の種や球根を漁っていました。プランターを買って土を買って…初めはチューリップから…夏はヒマワリと朝顔、2016年の暮れにCOUNTDOWNJAPANの最終日に行ったら、帰りに会場の外で飾られていたビオラを配っていてもらって帰り…家で育て…、2017年もチューリップ、ムスカリ、薔薇、ひまわり、朝顔、ガーベラ、ラナンキュラススノードロップ…と広げて、2018年はこんな感じになってます(笑)

https://www.instagram.com/p/BhITomwB5EA8t0xGB6vXqbZWP49SPB_bJlYu5I0/

#マイガーデニング #すずらん水仙

花の手入れをしていると家の前を通り過ぎる人が

「キレイですね。何が咲くのか楽しみにしていたんですよ」

とか、声をかけてくれたりして。なんでもないこういう交流が嬉しいなって思えて、母が何となく水やりをしていた植物への愛情が少しわかった気がしました。

私が花を育てるようになったのはなんだか母が憑依している気もするし(笑)家の前を花で飾ることが母への供養にも思えるし…とにかく、飽きっぽい私がなんちゃってガーデニング3年目に入っているのがなかなかすごいです。

たぶん、母も目を細めながら花を愛でてる事と思います。

2011年03月15日21:21 「こをろこをろ」

それは…イザナギイザナミの仕業であるのか?
かつて混沌としたこの大地を天沼矛(あめのぬぼこ)で、かき混ぜた様に…

その無邪気なる悪戯
その悪鬼たる仕打ち

嗚呼、確かにこの世は渾沌とし…行方もわからず漂う国
今一度、「立て直す機会」を与えたとでも言うのか?

母なる大地、それは儚いとされる…
不具の地…日本…
父よ立て、すべてはそこからはじまると神話は語る…

この地は母が不完全に創り上げた
だから再びその天沼矛(あめのぬぼこ)を用いて…
健全なる大地を生もうとするのか?



不具が故に、民は想像を超える「光」を備えてこの世に生まれた

「偽」であろうと「善」を忘れず
「無」にみえて「慈」に溢れている

“不謹慎”と窘める智者も必要であろう
何故ならそれらを全て許せば、今まで保てた日本国の
「秩序」すら失われるに違いないから

混乱の中…

“略奪”もない
“暴動”もない

それは賢者、智者による戒めが存在するからだ
日本の「誇り」なのだ

アナタに出来る事…
ただ、「希望」を与える歌を作り歌えばいい…
アナタはもっとナチュラルに…原始に帰る必要があるらしい

あえて言う

アナタの心眼に「時」は見えたか?
アナタのメッセージは…アナタの嫌う「偽」で
なんとなく“賛美”されてはいないだろうか?
「美しくも残酷なクリシェ
とか、絶望の言葉を言ってる暇などない
アナタの言葉は、まだ熟す前の「希望の果実」を
簡易的に熟させているという事に
気づいていないではなかろうか?
アナタは揺れる心のまま…
ただ、シリアスな闇に隠れたいだけではないのか?


アナタが思うほど、民の精神は弱くはない
その事に気づいてほしい
「時間が必要」なだけだ
時間をかけなければいけない

生きながらえた人々も
まだ、経験のない難題に直面しているのです
頭ではわかっていても…
どうしていいのかわからない…
それが…ただ、それが…

でも、
アナタからのメッセージは
『希望』を与える準備を始めよう!と
言っているように感じた

「希望」の光を強くする為の準備

2009年10月11日 昨日も映画を観てきたよ@20世紀少年 -最終章-

旦那が単身赴任先から一時的に帰ってきました!
何やら宴会のイベントで、ビンゴをやったらしくその賞品として
「TDL」のランドもしくはシーのどちらかで使えるパスを
2枚持ってキターーーッ 今までビンゴやらなんやらで
ろくな賞品をゲットした事のない旦那!今回はでかした!と、いうことで
昨日は映画に連れて行ってやった(笑)←スゲー上から目線ですけどw

 


1章から観ていたので、これは行かないわけにはいかん!みたいなw
但し、第2章が散々な内容だったので少し躊躇はしたのですが・・・。

まだ、公開中なのでネタバレのないようにお伝えすると、
さすが最終章なので、CGは惜しみなく使われてます!
私は原作を読んでおりましたので、「ともだち」の正体はわかって
いましたが、映像で観る事によってそれがまたリアルに伝わって、
人間相関図がわかりやすくなってます。

この間、「大田総理」という番組でスクールカウンセリングがどうのと
議論をしていたんですけどね・・・この20世紀少年を観ると、今も
昔も子供の心が傷つく原因は変わっていない・・・ミヤジの言葉を
引用するならたぶん、縄文時代から変わっていない・・・。

どんな「大人」なのかもわからない「カウンセラー」に子供の事を
ケアしてもらうなんてありえないな・・・。「親」ならそう思うはず・・・
兄弟が少なくなってきているけど、兄弟間の不条理、親の不公平、
そんな身近なところでも色々あるしね。
普通は身近な人間関係から、人の気持ちは育ち強くなるのだと思う。
家庭内においてあまりに『過保護』すぎるから、外からの些細な
いざこざにも耐えられないのでは?そんな事を思った。

話しがそれましたが、
20世紀少年を観てですね、私にも子供の頃に抱いた傷を持っていたり、
誰かを騙したり、そんな思い出が浮かんできた。
幸い、最終的には「ごめんなさい」と、言ったり言われたりして
「シコリ」を残さずスッキリして今に至っている・・・。
話し合ったり(激論だったな・・・w)、自問自答したりして間違いを
認める勇気、人を許す勇気をちゃんと持たないとだめだと・・・。
10代の時の私に教えられた気がする(笑)

 

2009年08月21日 もっと、私達は知らなければいけない

ザ・ノンフィクション
「500回記念康子のバラ~19歳、戦渦の日記~」を見て、書籍を
読みたくなった。
私は戦争を知らない世代です。だけど、戦争の悲劇は敗戦国被爆国として、少しでも学び知っておかなければならない。

粟屋康子さん(享年十九歳)が残した、戦渦の中に儚くも眩く美しい、そして悲しい・・・恋や友情、最期の証である日記・・・。
とても、印象的だったのは戦争中(後期)20歳を無事に迎えたとしても、彼等(彼女等)には21歳は訪れないかもしれない。
だから、日々を大切にすごそう・・・というくだり・・・。
戦況は悪化し「召集令状」がいつきてもおかしくない、空襲もひっきりなしにおこりはじめていたから。
時折、俳句などを織り交ぜながら、綴られている日記。
若干19歳の彼女が、知的な女性だったというだけではない。
教養はもちろんの事、きちんと現実の日本を見る心があったからだと思う。
彼女が生きていた時も、20歳になる目前の19歳で亡くなり、戦後60数年が経った今も、彼女のドラマは続いていて・・・テレビは号泣しながら見ていました。
21歳どころか、彼女は20歳にもなれなかった・・・。
戦争と言うのはそういうことなのか?漠然と感じた。


今は戦争中ではないが、世の中は混沌としている。
彼女達の犠牲の上に、今の平和がある・・・その平穏な環境にあぐらをかき、当たり前のように、ただいい加減に生きたらいけない・・・。そう思った。


この日記の舞台となっている、『東京第一陸軍造兵廠』という軍事工場は現在の北区・十条にあった。
私がこんな事を書くのは、急に偉くなったわけではなく四十三なり、子供もいて老いた親もいて最近感じる事です。